戦争遺構

城井1号掩体壕 宇佐市城井159番地の3
お客様との面会予定時間より随分早く到着したので、近くにある軍用機を空爆から守る施設の遺構を訪れました。宇佐市が平和のシンボルとして史跡に指定し公園として整備されたもので、「城井1号掩体壕」や154名の特攻隊員の名称を記した「石碑」や鎮魂の思いを込めた「記念碑」が設置されています。

軍用機を格納していた掩体壕(飛行機の防空壕)
ゼロ戦のエンジン部(国東沖から引き揚げられた)
石碑と記念碑

宇佐空の郷(うさくうのさと)宇佐市大字江須賀字正門4035番地の2
宇佐海軍航空隊の司令部庁舎や兵舎、格納庫が立ち並んでいた跡地で、当時の航空隊の正門跡地に「戦争遺構巡り」の拠点として整備された資料館です。

「宇佐空の郷」正面、遺構巡りにレンタル自転車の貸し出しもしています。
航空隊の正門門柱が1基展示され空襲の弾痕が残っています。
左サイドは6次産品を展示する「宇佐ブランド認証品」の展示コーナー

「平成」が終わり、新元号「令和」の時代がスタートするはざまで戦争遺構を訪問しました。予め計画したことではなくたまたま城井1号掩体壕を散策していた際に、市民パトロールの方とお会いし「宇佐空の郷」を紹介いただきました。
訪れたのが開館時間よりちょっと早かったので入館を迷ったのですが、宇佐戦争遺構保存会の方が遠慮なくどうぞとお声掛けいただき遠慮なく入館。保存会の方から15分ほど宇佐海軍航空隊の誕生から終戦までの経過をお聞きしました。
太平洋戦争の末期、戦局の打開を図るため海軍、空軍共に特攻隊を編成し、ここ宇佐海軍航空隊からも神風特別攻撃隊の「八幡護皇隊」を編成し、沖縄方面への特攻作戦で次々と出撃していきました。
この特攻で193名が出撃し154名が亡くなっています。当時の我が国では航空機で艦船に体当たりするだけでなく、攻撃兵器『人間爆弾「桜花」』、『人間魚雷「回天」』と出撃すれば兵士の死が絶対条件の兵器も開発されていきました。日本に触発されたのか、旧ドイツやイギリス、イタリアにも同じような特攻兵器がありましたが、いづれも体当たり前に脱出出来るようになっていたようです。 これからの国を担う若者を死地に赴かせ、大本営では国民に戦果を偽報する。 忖度あり、書換えあり、引きも切らない失言あり、毎度毎度の記憶にありませんあり、正すべきを中途半端な指弾で済し崩す組織あり。一部の方であろうが国政を担う姿が今も見えない。 退位礼正殿の儀で松の間から退室なされる明仁天皇(現上皇)が暫く立ち止まられ、式典の参加者、そして私たち国民に最後のご挨拶を。昭和を皇太子とされ、平成を御代としてその幕を下ろし、「令和」の平和を願い象徴としてのお勤めを果たした立姿は、心に残る閑雅なお姿でした。

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